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歴史 ~history~

終始一貫女子教育に精魂を打ち込んだ 学祖・中村 ユス

【中村ユスの出生】

中村女子高等学校の学祖・中村ユスは1841年(天保12年)12月28日、周防国吉敷郡宮野村(現在の山口県山口市宮野)に生まれる。中村家は毛利藩士の家で、父は中村常平、母はツルといい、ユスはその長女であった。14歳のとき、萩の本間家に嫁いだが、本間家は毛利藩の藩主およびその家族の呉服を仕立てる家筋であったため、妻ユスもほどなく夫に従って江戸に行き、関東仕立ての裁縫を習い、その技術を上達させた。時代は幕末、高杉晋作が奇兵隊を編成し、長州ファイブが渡欧するなどの動乱のさなか、萩に帰って後、毛利藩の山口移鎮(藩庁となる居城を萩から山口に移転)に伴い、ユス夫婦も山口に移り、野田にあった仲小路家に住むことになった。この仲小路家は毛利藩士の家で、当主は上田鳳陽(山口大学の学祖)の講習堂に学び、当時山口における歌詩の師匠であった。ここでユスは家中の若い女子の躾や裁縫の指導に当たることになる。時は近代日本の夜明け、明治維新に先立つ慶応3年(1867年)のことであり、これが裁縫塾の始まりであった。
ユスの生徒に対する指導は非常に厳しく、自らも極めて礼儀正しく身をもって模範を示した。また、進取の気性に富み、外交的手腕も優秀で、以後50年あまり校長として、終始一貫女子教育に精魂を打ち込んだのである。


【中村女子高等学校の歴史】

1.裁縫塾の誕生

中村ユスが嫁いだ本間家が、藩主及びその側近の衣服仕立ての仕事に携わっていたこともあり、ユスは藩主の屋敷に居住した奥女中付きの女子やその他の家中の女子に対して、裁縫を教えることとなった。ユスは夫と共に江戸において関東仕立ての技術を習得して帰ってきたばかりの、いわば新進気鋭の先生であった。教授の場所となった仲小路家は、後に毛利藩主の別邸となるが、裁縫塾はその後もこの毛利別邸で10年ばかり続けられた。開設当時の教授の内容はただ和裁のみならず、手芸から茶道、華道にも及んでいたようである。ただ残念なことに、ユスの夫は不幸にして程なく他界したため、ユスは中村家に復籍することとなる。

明治後期の授業風景

2.中村裁縫伝習所から中村裁縫女学校へ

中村ユスはのちに、上京して渡辺裁縫女学校(現 東京家政大学)に2ヶ月間学び、新しい時代の編み物の手法を身につけて帰った。1881年(明治14年)4月、校舎を山口町米殿小路(現在の山口市駅通り)に新築して「中村裁縫伝習所」を開設、広く女子に裁縫技術を教えることとし、生徒は50人くらいであった。このとき、明確に「中村」の称を冠し、以後今日まで校名として使用されている。また、その後中河原に寄宿舎を構え、ここでも裁縫の指導に当たった。
1889年(明治22年)裁縫伝習所を御局小路(現在の中市・米屋町)に移し、名称も「中村裁縫女学校」と改めた。裁縫塾としての機能を色濃く残していたものの、ようやく近代的女学校の性格も加味され始めてきたのである。程なく寄宿舎も中河原からここに移された。

3.私立中村裁縫女学校 ~女子教育の振興へ

経営者かつ校長である中村ユスは女子教育の振興と学校の拡張を図るべく、1900年(明治33年)に校地を今道41番地、即ち現在の中村女子高等学校の地に求め、御局小路から移転してその4月に授業を開始した。学校は私立学校令によって「私立中村裁縫女学校」と称し、学校としての体裁がようやく整い始めた。学科も裁縫のみならず、国語、習字、作法、歴史、地理、理科、数学などが有り、一般普通科目も幅広く取り入れられた。
しかし、校費の不足を補うため、金融機関からの借り入れが膨らみ、学校維持経費をまかなうには在校生の数が極めて不足した状況になった。この頃から、学校経営が一時衰退の時期を迎えることになる。

4.私立中村実科高等女学校

1913(大正2年)、中村ユスは時代の要請に応えるため、裁縫女学校を廃止し、高等女学校令による「私立中村実科高等女学校」に移行することとし、同年9月、認可と共にこれを実施、県下私立の最初の実科高等女学校となった。女子中等教育機関の普及をねらって設けられた実科高等女学校の制度(明治43年)では、修業年限4年、3年、2年の3種類が設けられ、外国語が除かれている点は前と同様であるが、裁縫、理科、家事の教科の授業時間数が全体の半分以上占め、質実勤勉の気風を培うことをねらいとしたものであった。このことは、日露戦争後の経営政策が背景にあったことは否めない。中村実科高等女学校はこのような時期にその設置認可申請を行い、修業年限3年、生徒定員150名としたのである。
また、時期を同じくして、校長の職を養子の中村芳信(後に協議離縁となる)に譲るが、その在任期間2年足らずの後、1915年(大正4年)再び中村ユスが校長に就任した。

中村実科高等女学校・中村高等裁縫女学校

5.校長 木村菊三郎の手腕

再び校長の職に就いた中村ユスは翌1916年(大正5年)にその職を退き、木村菊三郎に後任を託した。ユスは跡継ぎに恵まれず、既に75歳の高齢にも達していたこともあり、新時代の私立学校経営について、新知識を身につけた人がこれに当たることが望ましいと考えたのである。
木村菊三郎と中村ユスの出会いは、菊三郎の妻のヒサ夫人を通じてのことであった。ヒサは大殿小学校の教員として勤めており、中村ユスも同校の裁縫の教員を兼務し、自然と二人は親睦を深めることとなった。これがきっかけとなり、菊三郎は時々、中村裁縫女学校の教員志願生徒のために教育学を教え、また、ユスも仕事上のことでヒサの自宅に頻繁に通うようになった。菊三郎は山口県内の小学校教員として教鞭をとり、大富小学校(仁保)校長に就任した後、大正5年の退職に至るまでの30数年間小学校教育に精進した方である。中村実科高等女学校の校長、あるいは経営を引き受けたことについては、ヒサ夫人の内助の功に期待するところがあったからでもあり、菊三郎の手記の中に「私は妻ヒサと一緒に経営するつもりで、もしヒサが居なかったら引き受けはしなかったと思う」という意味の言葉を残している。

木村菊三郎先生

こうして学校の校長に就任し、1917年(大正6年)4月、校章を制定、そして同年8月1日、中村ユス先生の後を受け、学校の経営も継承することになった。しかし、先にも触れたように累積の赤字が積もっていた時であり、職員の給与にも事欠くような有様であったのである。あとに、菊三郎は「本校が各種学校の域を脱して認可校となり、中村実科高等女学校という看板を掲げたことが蹉跌(失敗・挫折)の第一歩」と述べている。幸いにも親しい間柄であった久原房之助の支援を得ることができ、ともかく破綻を免れることができた。この久原房之助なる人物は菊三郎と同じ山口県萩の出身で、1910年(明治43年)に日立製作所、1912年(大正元年)に久原鉱業所(現在のJXTGホールディングス、JX金属)を設立して社長になった人で、久原財閥の総帥として「鉱山王」の異名を取った人物である。
菊三郎が学校を継承した当時は、生徒定員150名に対して実数わずかに64名に過ぎなかったが、この後、在任中に校地の拡大、教室・寄宿舎の増築を行い、後に、定員800名に対して実数最高時890名に及んだこともあるように、時運によるところとはいえ、ひとえに木村菊三郎の努力の賜に外ならない。また、継承に当たって校名を改めてはどうかとという進言も出たが、律儀な菊三郎は創始者の功績を重んじて、これを退け「中村」という校名を変えなかった。
さて、1918年(大正7年)4月、学則の改正を行い、修業年限の延長・生徒定員の増加に伴い、同時に「中村高等裁縫女学校」を併置した。折しも第一次世界大戦の影響を受けて実業界は好景気の状態にある一方、小学校の就学率は特殊な場合を除いて100%に近い状態に達し、さらに中等学校への進学も顕著に伸びてきた時期でもあり、学校経費の拡大にも希望が持てる条件下であった。この高等裁縫女学校は中村実科高等女学校が高等女学校令によって設置されていることで、裁縫科の比重が相対的に低下したことを補う意味から、また、小学校裁縫科教員の養成の要望に応えようとするものであった。

6.中村高等女学校へ

1920年(大正9年)4月、中村実科高等女学校は、その組織を変更して「中村高等女学校」とした。私立の高等女学校が各地に出現し始めたのは大正の後期以降である。女子教育が国家の発展に寄与するものであるという意識は、日露戦争後特に高まってきており、小学校就学率の飛躍的向上と中等教育を身につけようとする意欲の伸長が、高等女学校の必要を期した。
中村高等女学校は、県下でも古い歴史の上に立った女学校であり、教育者として知られた木村菊三郎の経営と指導の風を慕って、各地から就学する者も少なくなかった。そして残念なことに1924年(大正13年)、中村ユスは鰐石にある自宅にて84歳(享年)の生涯を閉じたのであった。中村ユスの教育方針は『含章貞吉』『平常心是道』であり、これが本校創立の精神であったと木村菊三郎は述べている。
ところで、中村高等裁縫女学校は1925年(大正14年)4月に「含章女子高等専修学校」と校名を改め、妻の木村ヒサがその校長に就任した。翌年、木村信義(菊三郎の長女である木村貞子の夫)が中村高等女学校の校長に就任したが、信義は病弱であったため、1936年(昭和11年)再び木村菊三郎が校長の職についた。また、1939年(昭和14年)、木村貞子が含章女子高等専修学校の校長に就任した。

当時の校舎(大正12年)

7.戦時下の学校と学徒動員

1941年(昭和16年)12月、日本はついに第二次世界大戦に突入して、戦時教育も強化されるようになり、授業時間の削減まで行われるようになった。そのような状況の中、含章女子高等専修学校は廃止となった。戦局が激しくなる中、1944年(昭和19年)に学徒動員令が発せられ、中村高等女学校の生徒も県内外の軍需工場に出動したが、その一つに光海軍工廠があった。この光海軍工廠は海軍の兵器工場として作られたもので、1945年(昭和20年)8月14日、アメリカ空軍の爆撃を受け、一瞬にして多くの殉職者と負傷者を出したのである。学徒犠牲者は133名、うち女子85名、この中にあって中村高等女学校の生徒は33名という多数の死者を出したのである。終戦の一日前のことであった。

8.中村女子高等学校の設立

戦時教育体制が解かれる中、1946年(昭和21年)木村菊三郎は高齢であったことなどから、校長職を木村貞子に譲り、翌年1月、かねてからの懸案であった財団法人化を実施、「財団法人中村高等女学校」として登記し、理事長には木村貞子が就任した。同年4月に、新制中学校を併設し中高一貫教育をかかげたが、これはのち、昭和34年に廃止した。1948年(昭和23年)4月、「新制中村女子高等学校」を発足、木村貞子が引き続き校長に就任した。しかし、残念ながら1950年(昭和25年)、30年間にわたって学校経営に、また教育に日夜情熱を注ぎ、心労の連続であった木村菊三郎は、自宅において逝去された。享年84歳であった。菊三郎は在任中、私学の振興についても尽力し、全国私立中等学校恩給財団の設立を主唱し、その実現を見るに至ったのである。
その後、県下の私立学校は私立学校法により、従来の財団法人から学校法人へと組織変更が行われ、本校も1951年(昭和26年)に「学校法人中村女子高等学校」へと切り換えられた。1958年(昭和33年)、続いて1962年(昭和37年)に鉄筋3階建て校舎を新築するに至り、これにより1500名の生徒を学習させる規模となった。

9.凛として、志を未来へつなぐ中村女子高等学校へ(そして現在)

先にも触れたように、新制中村女子高等学校として発足した当時は、普通科、被服科(後、家庭科に変更)であったが、1959年(昭和34年)には商業科を設置、この後、学科の変遷が見られるが、1972年(昭和47年)に衛生看護科を設置、1986年(昭和61年)衛生看護専攻科設置、1994年(平成6年)には法人名を「学校法人山口中村学園」と名称を変更した。さらには、介護福祉科、調理科の設置を行うなど、時代の要請に応えるがごとく進化を遂げていったのである。
こうして2016年(平成28年)に校内建物の耐震工事をすべて完了し、2017年(平成29年)、本校は創立150周年を迎えた。これを記念してロゴマークを作成し、発表すると同時に商標登録も行った。150年の時を超えて中村ユスの精神は受け継がれてきたのだが、明確なビジョンを持ち、人として存在感ある自立した「女子力」を身につけることこそ本校が一貫して追及してきたことである。

知っちょる!?コラム
「業苦」「崖の下」などの作品を発表した嘉村磯多が(当時28歳)、1924年(大正13年)から2年間、中村高等女学校の書記として勤務していた。木村菊三郎は仏教の信仰に厚く宗教誌を発行していたが、これに嘉村磯多が寄稿しており、磯多に影響を与えると共に、磯多文学を支えていたものと思われる。

出典 :
松村 茂 編 『中村女子高等学校 百二十年史』(昭和61年)
白上 貞利 『中村ユス先生伝記並に先生経営学校の沿革資料』(昭和32年)